熊沢誠 講演
◆熊沢誠 講演「権力はなぜ、関生支部を弾圧するのか?」◆
5月10日、学働館で「労働組合つぶしの大弾圧を許さない実行委員会」が主催する学習会「権力はなぜ、関生支部を弾圧するのか?」が開催され、関生支部組合員をはじめ共闘労組・市民団体・個人など多数が参加。講師の熊沢誠氏(労働研究家・甲南大学名誉教授)は今回の弾圧について「常軌を逸したもの」と指摘するなど鋭い分析を展開。参加者は熱心に耳を傾けていた。(以下、講演の要旨)
「民法・刑法上の免責」との
ルールが揺らぐ危機的状況
現在の関生支部弾圧はおよそ民主主義国家の法的な到達点を無視する、考えられないような労働組合つぶしであり、労働運動史でもまれに見る公然たる労働組合運動の否認だ。
なぜ、このような反動的な「労働政策」が実行されるのか。この点について、労働組合運動が認められるに至った歩みを振り返りたい。
イギリスで言えば1870年代、アメリカでは1930年代に争われたようなことがこの弾圧では争点になっている。日本でも形式的な団結権だけが保障されていた戦前の治安警察法下の時代を思い起こさせる事態が目の前で起きている。
世界各国の労働者による長い年月をかけた闘争の結果、「民法上の免責」「刑法上の免責」というルールが確立されたが、このルールそのものが揺らいでいるというのが現在の事態だ。
中小企業まとめる政策掲げ
行動する労組であればこそ
ではなぜ、今、このような労働組合つぶしが画策されるのだろうか。
端的に言えば、日本の労働組合運動の衰退が大きな原因だ。それは具体的には労働組合の組織率の低下であり、現在ある労働組合もストライキをしなくなったということだ。
アメリカでは日本よりもはるかに組織率が低いが2015年の1年間で比べると、49倍もストライキがあった。イギリスでも11倍、ドイツにいたっては73倍だった。日本では大多数の市民が「今どきストライキか」という感覚を持っている。それがこの弾圧を許す根底にある。権力は関生支部を叩いたとしても労働組合からも市民からも大きな反発はないとたかをくくっているのだ。
関生支部がターゲットにされたのは、関生支部が日本ではすでに例外的になった「まっとうな労働組合」だからだ。
関生支部の優れた特徴点の一つは、企業の枠を越えた正規労働者・非正規労働者を組織する産業別・業種別の労働組合だということ。
二つ目は、独自の産業政策を展開しているということ。関生支部は労働条件の改善と生コンの品質維持のためには生コン製造業者・輸送業者の経営安定が必要であると認識。ゼネコン・セメントメーカーといった大企業の収奪に対抗するために協同組合を形成させ、共同受注・共同販売を通じて生コンの適正価格を実現してきた。さらに、そこで得られた原資を労働者に配分させるために経営者団体と集団交渉を行い、賃金・労働条件の大幅な改善を勝ち取ってきた。この点が一番のポイントであり、関生支部が弾圧される最大の理由がここにある。
さらに、もう一つは「行動する」ということ。必要であればストライキを実行する。相手にとってこれ以上邪魔な存在はない。だから関生支部は弾圧されるのだ。
一昨年12月のストライキ以降、大阪広域協組は徹底して関生支部排除、関生支部と協力関係にある企業に対する営業妨害を行ってきた。これは協同組合の理念を踏みにじる行為であると同時に明確な不当労働行為である。
その後、警察権力が登場した。大阪府警や滋賀県警の背後には警察庁が関与しており、もしかすると首相官邸まで関与しているのではないかと考えられる。
これまでのべ約60名もの組合役員・組合員が不当逮捕・勾留されるという異常事態にある。戦前の特高警察が行ったように、大阪府警や滋賀県警が「関生支部と手を切れ」「脱退しろ」と組合員に「転向」を迫っている。まさに常軌を逸している。
さらに、説得活動を暴行・脅迫、中小企業の経営を守るためのストライキを威力業務妨害とみなす。これは「刑法上の免責」を無視する暴挙だ。さらに今回の一連の事件で仮に有罪になれば関生支部の争議は不法だとされ、損害賠償を請求される危険性がある。
今やストライキは非合法の犯罪とみなされかねない状況にある。これを許せば、資本と権力が望むように、ストライキなど一切考えない、形式的な労働組合だけになってしまう。労働運動にとってこれ以上の危機はない。
関生弾圧は自分自身の問題
この手で真の民主主義を!
さて、労働者にとっての真の民主主義とは何だろうか。それは産業民主主義だと考える。
民主主義というのは本来、生活に深刻な影響をおよぼす事柄への当該の人々の決定権(または決定参加権)だ。これを労働者に当てはめて考えると、労働条件についての決定参加権ということになる。そして、どうやって労働条件の決定に参加するのかと言えば、労働運動・労働組合を通じて参加するということに他ならない。
日本では「労働問題というのは結局、政治問題ではないか。だから、政治の場で解決するものだ」という考え方が主流となっている。しかし、私はそうは思わない。
政治的民主主義というのは国民的多数決と言い換えることができるが、大多数の国民がある特定の産業で働いている労働者の不満や要求を感じ取るのには限界がある。したがって、政治的民主主義すなわち国民的多数決によって労働条件を決定すべきだという考え方は「多数者の少数者に対する抑圧」になってしまう。だからこそ、そこで実際に働いている人々が声を上げ、彼らが要求を実現するために闘うことを保障しなければならない。
さらに、この弾圧は憲法違反である。つまり、関生支部弾圧をはね返し、関生支部を支援することは「護憲運動」でもある。
しかし、「護憲派」と呼ばれる人々もこの弾圧に対する危機感が非常に薄い。全国規模の大きな労働組合やリベラルと言われる市民団体の反応も鈍い。さらに、マスコミはこの問題を無視している。こうした状況が生まれる最も大きな理由は、日本における産業民主主義の根の浅さにあり、産業民主主義の意義を多くの人々が理解していないことが根っこにある。
今、必要なことは裁判闘争を包むような大衆的な街頭行動であり、さらにそれを包む多くの労働組合の抗議行動だ。そうした行動のなかで「今どきストライキか」という日本社会にある閉塞的な空気を打破しなければならない。
多くの人々がこの問題を自分自身の問題だととらえるようこれからも訴えていきたい。政党やナショナルセンターの枠を越えた労働者・市民の幅広く、しかし、非妥協的な戦線の構築が今、求められている。
【 くさり6月号より 】